山本覚馬・八重邸宅跡

枚目 / 枚中
資料名  :山本覚馬・八重邸宅跡
資料コード  :1800001
分野  :彫刻 歴史 史跡 
分野2  :石碑
時代・年  :明治
地域  :京都
概要(フリーワード)  :明治時代、京都府顧問だった山本覚馬の邸宅跡。当時は上京三十一区下丸屋三百九十一番地といった(旧土地台帳、京都地方法務局所蔵)
山本覚馬は、文政11年(1828年)2月25日、陸奥国会津郡若松にて、会津藩の砲術師範であった山本権八・さく夫妻の長男として誕生。幕末の会津藩士、砲術家、明治時代の地方官吏、政治家。京都府顧問、府議会議員(初代議長)として初期の京都府政を指導し活躍した。
1875年に宣教師ゴードンを通して、キリスト教を学び、キリスト教こそが日本を根底から動かし、進歩を促進する力だと信じるようになった。ゴードンの紹介で知り合った、同志社英学校(現同志社大学)の創立者・新島襄(後、妹八重の夫)の協力者として、現在の同志社大学今出川校地の敷地を譲った。新島襄が永眠した後は、同志社臨時社長を務め、同志社の発展に尽力。
晩年覚馬は眼病を患い失明し、その兄支えるため妹八重も同居していた。1875年には、新島襄の居所でもあった。
明治25年(1892年)12月28日に自宅で永眠した。
撮影者  :谷口幸子
撮影日  :20180418